おおよそ20年前くらいの話です。
地方から上京した僕は、高校時代の友人二人と一軒家を借りて住んでいました。
今でいうシェアハウスのはしり、というと聞こえはいいのですが、建物は木造平屋、戦後すぐに建てられたという代物で、お洒落とはほど遠い暮らしでした。
とはいえ一軒家ならではの良さもありました。
その一つが庭です。狭いながら縁側があって月桂樹の木が生え、小ぶりな庭石が置いてありました。僕はその庭がスキで、よく縁側に座ってぼーっと庭を眺めて過ごしていました。
ある日、いつものように縁側に出てみると不思議なことに庭石が一つ増えている。しかもツルッと滑らかでキレイなのです。なかなかにイイ。けれど、少し邪魔になる場所にあったので位置を変えようと両手で持ち上げると…ん?思いのほか軽い。
おや?っと思ってよく見みると、庭石だと思っていたそれはイモでした。
ちょっと大ぶりのジャガイモ。
自分が石だと思っていたものがイモだったという事実に驚き、思わず笑いが込み上げてきました。そしてそれ以降、僕は庭石を見ると、もしかしたらイモかもしれない、と考えるようになりました。
役に立たない笑い話に聞こえますが、今考えると、この体験は「見立て」の裏側を示しているように思えます。
イモは通常、台所や畑にあるもの。それが置かれるはずのない庭に置かれることによって、イモはイシとして機能し始めます。これは、ある特定の文脈では「こうである」と思われていたものが、別の文脈に入ると新たな役割を担う可能性がある、ということを示しています。この文脈の入れ替えを意図的に操作するのが、「見立て」という作法なのだと僕は思っています。
僕は「デデデデデンサン」というプロジェクトに関わっています。このプロジェクトでは伝統的工芸品を見立て、現代の生活における活かし方を提案しています。プロジェクトが始まって3年、48の伝統的工芸品の産地を取材しました。毎回、取材チームで頭をフル回転させて工芸品を見立てるのですが、そんな時に思い出すのが、庭に置かれたイモのことです。
正面ではなく、目線をナナメウエに構えてみる。
イシはイモかもしれない。反対にイモはイシかもしれないと考えて臨むと、目の前にある工芸品の「従来とは違う活かし方」が見えてきます。
すでにあるモノに新しい役割を付与する。
新しいモノを作るのも大切ですが、モノが溢れる今、「見立て」というナナメウエ目線の構えが、より一層有効になるかもしれない。
そう思うのは僕だけでしょうか。
ちなみになぜ庭にイモが置かれていたのか、未だに謎です。
永井 史威